序章 化学工学とは何か
化学工学の内容
化学工学はプラントを設計するための実利的な学問で、複数の工学系学問を含んでいます。例えば工業熱力学や流体工学あるいは伝熱工学などで、これらは機械工学を学ぶ学生や学んだことのある社会人にとって身近な学問です。しかし、化学工学の場合にはこれ以外に化学反応や化学平衡を扱う”化学熱力学”や蒸気圧やフガシチー(フガシティー,fugacity)などの”物性”に関する知識が必要となってくるために、化学に対して苦手意識がある人にとっては簡単に入り込めない学問になっています。
しかし、1981年の福井謙一氏以来、今年に至るまでに7名の日本人がノーベル化学賞を受賞しており、ようやく国民の間にも化学に関する理解が得られてきたのではないかと思われます。
この化学工学を構成する学問が”有機化学や無機化学”で、”五重の塔”の心柱に相当します。また、屋根などを支える4本の柱が”物質収支”、”エネルギー収支”、”熱流動”そして”化学平衡と気液平衡”に匹敵します。これらの柱が一体となって、約10万種類の化学物質を工業的に生産すると共に、毎日のように出現する新しい化学物質の製造ニーズに対応しているのです。
ビールの製造と物質収支(Material balance)
物質収支とは化学プラントの履歴書みたいなもので、原料から製品を生産するまでの物質の変化を表したもので、そこでは物質は分子や原子レベルまで細分化されています。
例えばビールを製造する場合、原料は大麦と水に苦みと香りのもとになるホップ、これ以外に米やコーン、そして糖分を発酵させてアルコールを造るための酵母が必要です。これらの原料からビールを製造する工程は、
製麦→仕込→発酵・熟成・ろ過
の順番になっており、物の動きは、
[大麦(麦芽)+水]→[(でんぷん→糖)&(タンパク質→アミノ酸)]→[麦汁(ブドウ糖&麦芽糖)→アルコール(エタノール)」
となっています。この物の動きでは大麦やブドウ糖など、分かり易い単語を使っていますので、直感的には理解しやすくなっています。しかしこれは物質収支ではなく、ただのモノの流れです。
これを物質収支のコンセプトで表示すると、
C6H10O5(デンプン)+H2O(水)→C6H12O6(ブドウ糖)→C2H5OH(エタノール)
最初のデンプンと水からブドウ糖を作る過程では、次表に示すようにC(炭素)とH(水素)およびO(酸素)の原子数あるいは分子数が左右同じになっており、物質収支の基本である質量の保存則が成立していますが、ブドウ糖からエタノールを作る工程では数があっていません。
物質名 | デンプンと水 | ブドウ糖 | エタノール |
分子式 | C6H10O5+H2O | C6H12O6 | C2H6O |
C 炭素 |
6 | 6 | 2 |
H2 水素 | 5 + 1 = 6 | 6 | 3 |
O 酸素 | 5 + 1 = 6 | 6 | 1 |
そこでC(炭素)とH(水素)およびO(酸素)の原子数あるいは分子数が左右同じになるように、エタノールの係数を変えてみます。そのやり方には色々ありますが、まず、C(炭素)が同じになるようにエタノールの係数を3にしてみます。この係数を使って計算してみますと下表のように、H(水素)およびO(酸素)の原子数あるいは分子数がやはり合いません。
物質名 | デンプンと水 | ブドウ糖 | エタノール |
分子式 | C6H10O5+H2O | C6H12O6 | C2H6O |
C 炭素 |
6 | 6 | 2 * 3 = 6 |
H2 水素 | 5 + 1 = 6 | 6 | 3 |
O 酸素 | 5 + 1 = 6 | 6 | 1 |
次に、H(水素)が同じになるようにエタノールの係数を2にしてみます。この係数を使って計算してみますと下表のように、C(炭素)およびO(酸素)の原子数あるいは分子数がやはり合いません。
物質名 | デンプンと水 | ブドウ糖 | エタノール |
分子式 | C6H10O5+H2O | C6H12O6 | 2 * C2H6O |
C 炭素 |
6 | 6 | 2 * 2 = 4 < 6 |
H2 水素 | 5 + 1 = 6 | 6 | 3 * 2 = 6 = 6 |
O 酸素 | 5 + 1 = 6 | 6 | 1 * 2 = 2 < 6 |
最後にO(酸素)が同じになるようにエタノールの係数を6にしてみます。この係数を使って計算してみますと下表のように、C(炭素)およびH(水素)の原子数あるいは分子数がやはり合いません。
物質名 | デンプンと水 | ブドウ糖 | エタノール |
分子式 | C6H10O5+H2O | C6H12O6 | 6 * C2H6O |
C 炭素 |
6 | 6 | 2 * 6 = 12 > 6 |
H2 水素 | 5 + 1 = 6 | 6 | 3 * 6 = 18 > 6 |
O 酸素 | 5 + 1 = 6 | 6 | 1 * 6 = 6 = 6 |
以上の結果から、原料であるデンプンと水から作られる物質にはエタノール以外の物質が存在する可能性が出てきました。そこで各ケースにてブドウ糖とエタノールで過不足となった分子数と原子数を比較してみます。この結果から”炭素数で合わせたケース”と”酸素数で合わせたケース”ではどちらかがプラス(+)となりもう一方がマイナス(-)となっており、辻褄が合いません。そこでどちらも差が正となっている”水素数で合わせたケース”を見てみますと、炭素数が2、酸素数が4になっています。これを分子式で表してみますとC2O4となりますが、それぞれの係数を2で割ってみますとおなじみのCO2となります。
ブドウ糖~エタノール | 炭素数で合わせる | 水素数で合わせる | 酸素数で合わせる |
C 炭素 |
6 - 6 = 0 | 6 - 4 = 2 | 6 - 12 = - 6 |
H2 水素 | 6 - 9 = - 3 | 6 - 6 = 0 | 6 - 18 = - 12 |
O 酸素 | 6 - 3 = 3 | 6 - 2 = 4 | 6 - 6 = 0 |
そこでエタノール以外にCO2が発生していることが予想されますので、エタノールの項に二酸化炭素を加え、それぞれの係数を2とすると次表となって物質収支が合致しました。実際にもアルコール発酵で二酸化炭素が泡となって発生しており、ビール製造の物質収支では副産物としてCO2が排出されていることがわかります。ただし、もともとバイオマスである麦などを原料にビールを製造しているので、「カーボンオフセット」の考えからか、ビール各社のホームページには、この説明はありません。
物質名 | デンプンと水 | ブドウ糖 | エタノールと 二酸化炭素 |
分子式 | C6H10O5+H2O | C6H12O6 | 2 * C2H6O + 2 * CO2 |
C 炭素 |
6 | 6 | 2 * 2 + 2 * 1 = 6 |
H2 水素 | 5 + 1 = 6 | 6 | 2 * 3 = 6 |
O 酸素 | 5 + 1 = 6 | 6 | 2 * 2 + 2 * 1= 6 |
このように物質収支を分子あるいは原子ベースで記載することにより、製品だけでなく副産物や廃棄物などの種類や数量を推定出来るようになります。
次回に続く・・・。
- 序章 化学工学とは何か
- 化学工学の特徴
- 化学工学と化学工業(その発展と今後)
- 化学工学と化学プロセス
- 化学工学と化学プロセス(原料と製品)
- 化学工学とプラント設計(化学プラントと機械プラント)
- 化学工学とプラント設計(化学工学の内容)
- 第1章 化学工学入門
- 1.1 化学工学の基本コンセプト
- 1.2 物質収支(液体)
- 1.2.1 物質収支(液体)続き
- 1.2.2 物質収支(気体)
- 1.2.3 原子バランスと化学反応を伴う物質収支
- 1.2.3 原子バランスと化学反応を伴う物質収支(続き)
- 1.2.4 制御システムと化学反応を伴う物質収支
- 1.3 熱収支とエネルギー収支
- 1.3.1 単位操作と運転条件
- 1.3.2 熱収支とエネルギー収支の計算
- 1.4 流動
- 1.4.1 流動と拡散